第18回 上京して初めて住んだ部屋の台所でよく作った、具のないペペロンチーノ

夏井景子さんの想い出の味
2022.04.27


4月、新生活の始まりだ。
とはいえ、私は特に新しいことが始まるわけではないが、電車に乗ったり街に出ると、新しい生活が始まったであろう若い人を見てとても微笑ましくなる。上京して早20年。いつの間にか、東京で暮らしている時間のほうが長くなった。

上京して最初に住んだ街は、渋谷にも横浜にも20分ほどの学生の街だった。大きな大学があるので、上京したての人が住む時に結構オススメされる街らしい。

駅から徒歩4分の1Kのアパート。あのアパートから今の家まで、3つの家に住んだけれど、あんなに駅近に住んだのはこの時だけ。こんなに駅近に住んで、もう遠いところは住めないと思っていたけれど、まさかのまさか、どんどん駅から遠のいている。

最近は駅から離れた場所ばかりに住んでいるので、「駅近が嫌なの?」とたまに友達に聞かれるが、そんなことはない。環境と家賃の問題なだけで、実は駅近の良さも知っている。

その部屋は1階で日当たりはよくないけれど、玄関を開けたらすぐ左側に1.5畳ほどの台所があった。コンロも2口あって台所に窓もあって、料理をしていると外が見える。部屋とは別に独立した台所があるのがとても気に入って、そこに決めた。

大家さんが私の上の階に住んでいて、大きな白い犬と猫と暮らしているすてきなおばあさまだった。夕方、学校から家に帰る時に散歩帰りの大家さんと会うと、犬を撫でさせてもらっていた。

ひとり暮らしをするまで、ほとんど料理をせずに生きてきた。実家にいた時は、母のおいしいごはん。高校で寮に入ってからは、栄養の考えられたごはんが3食。ごはんに困らない生活だったので、最初はとても困った。

ある日チャーハンとほうれん草のおひたしを作ったら、チャーハンはべちゃべちゃ、ほうれん草はゆで過ぎるし、水けを絞った時に絞りすぎてドロドロになり、おひたしどころではなくて、自分の料理力のなさにビックリしたことを覚えている。
あの当時、料理本に書いてある「ほうれん草をさっとゆでる」のさっとが、どれくらいかわからなかった。

そこで、私はひとり暮らし用の料理の本を買った。初心者中の初心者用の料理本。パスタのゆで方とか、きんぴらごぼうとか、そういった基本の基本が載った本だった。

その本の後ろのほうの、1ページに4つほど副菜が載っているページに、「プライドポテトのソース炒め」というものが載っていた。冷凍のフライドポテトをベーコンと炒めて、中濃ソースで味つけするというもの。これだ!これなら絶対失敗しなさそう!と思い、私は早速作った。

味つけはソースがしてくれるから、冷凍のポテトをちゃんと解凍して、ベーコンに火を通しさえすれば失敗しない。上京当時、こればかり作って食べていた。ただ想像のとおり、毎日毎日ソース味はさすがに飽きる。少しずつその料理本の他のものも作るようになっていった。

当時、私はパスタ屋さんでアルバイトをしていた。チーズケーキとパスタのお店。チェーン店のパスタ屋さんなので、でき上がっているソースが工場から送られてきて、味つけ用のお塩も個包装で分けられているので、お塩さえ入れ忘れなければ味はしっかり決まる、料理初心者でもどうにか働けるお店だった。

そして、私は家でもパスタを作るようになる。よく作っていたのは、具のないペペロンチーノ。パスタは大容量の安いもので、具材は刻んだにんにく、たまに豪華になるとベーコン入り。ブラックペッパーはたっぷり挽いて。本当にそれだけのパスタ。あぁ、なんて野菜の足りないメニュー。

本当にこれもよく食べた記憶がある。ある時、この具のないペペロンチーノに粒マスタードを添えて食べたらとってもおいしくて、冷蔵庫に粒マスタードを常備するようになった。あの頃からずっと、今でも私は冷蔵庫に粒マスタードを欠かした事がない。

少しずつ少しずつ、自炊に野菜が使えるようになっていった。
今はもう野菜をたっぷり入れてペペロンチーノを作る。変わらないのは、粒マスタードを添えて食べること。

窓のあるあの小さな台所で、いろいろなものを作った。友達へ向けてのお誕生日ケーキ、煮込みハンバーグ、学校の先生から教わった本格的なカレー、極めつけはウイスキーボンボンまで作っていた。料理は苦手なのにウイスキーボンボンを作る気力、今となっては見習いたい。

料理を好きになるのは、専門学校を卒業して働きだして数年後のこと。まさか毎日フライドポテトをソースで炒めて食べていた頃の自分が、料理の道に進むとは夢にも思わなかった。

今でも電車で当時住んでいた街を通り過ぎる時、なんとなくあの時のアパートを目で探してしまう。再開発でどんどん変わる街並みなのに、今でもあのアパートは存在していて、電車の窓からしっかり見える。あの窓が見えるたびに私は懐かしくて、いつもあのフライドポテトのソース炒めと具のないペペロンチーノのことを思い出す。

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Profile

夏井景子

KEIKO NATSUI

1983年新潟生まれ。板前の父、料理好きの母の影響で、幼い頃からお菓子作りに興味を持つ。製菓専門学校を卒業後、ベーカリー、カフェで働き、原宿にあった『Annon cook』でバターや卵を使わない料理とお菓子作りをこなす。2014年から東京・二子玉川の自宅で、季節の野菜を使った少人数制の家庭料理の料理教室を主宰。著書に『“メモみたいなレシピ”で作る家庭料理のレシピ帖』、『あえ麺100』『ホーローバットで作るバターを使わないお菓子』(ともに共著/すべて主婦と生活社)など。 
http://natsuikeiko.com   Instagram:natsuikeiko

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