【父の日】娘の運転がプレゼントに 親の免許返納に思う
高齢の親に免許返納を促すのは、難しいと聞きますが、文筆家・一田憲子さんのお父さまは、80歳を過ぎて突然、運転を止めたそうです。今では娘の運転がご両親への贈り物にもなっているよう。「父の日」に寄せて、一田さんの著書『父のコートと母の杖』から、車にまつわるストーリーをお届けします。
父が免許を取ったのは、60歳になった頃だ。私が子供時代、一田家には車がなかった。友達たちが、当たり前に車で遊びに出掛けている中、我が家には「ドライブ」という用語は存在しなかったのだ。父はずっと車に乗りたかったのだと思う。娘たちが独立したのち、満を持して免許を取った。当時、千葉県に単身赴任中で、会社の取引先でもあった教習所でVIP待遇で運転を習い卒業したのだという。「仕事が終わって教習所に行ったら、いつも同じ教官が待っていてくれたんや」と得意げに語る。
赴任先から実家に戻る新幹線の中で学科の教科書を丸暗記し、試験を受けて合格。その日に、新車が納品されるように手配をしておき、免許取り立てにもかかわらず、翌日には兵庫県から千葉県まで車に乗って帰ったというから驚きだ。もっとも母を助手席に乗せ、途中浜松あたりで1泊したそうだが……。

92歳のお父さまと、82歳のお母さま。一田さんの運転でお盆に両家のお墓参りへ。(年齢は執筆当時)
免許を取ってから、父と母はふたりであちこちに「ドライブ」に出掛けるようになった。九州や四国一周、長野へ、そしてときには東京、日光、那須高原へ。私も実家に帰ったときに、「ちょっと徳島まで行ってみようか?」など1泊旅行に誘われたものだ。仕事で実家を宿代わりに使うときには、どんなに遅くなっても最寄駅まで車で迎えに来てくれたし、朝早く、取材先まで送ってもらったこともある。
突然の免許返納
そんな父が免許を返納したのが80歳を過ぎた頃だ。本人は私たち家族に決して詳細を語ろうとしないが、どうやら事故を起こしたらしい。傷ついた車を修理することはせず廃車にした。負けず嫌いの父は「駐車場代もかからなくなったし、保険代や税金の分で買い物に行けるから、ちょうどよかったわ」と語る。
親に免許の返納を促すのは、なかなか難しいと聞くが、父の場合「え? 返納したん?」とこちらが驚くほど、あっけなく手放したのだ。自分が事故を起こすなんて思ってもいなかったから、ハッと気づいたときに車がぶつかっている状況に、「ああ、もう無理だ」と思ったのかなあと想像している。でも、60歳から80歳までと、父の車ライフは短かったけれど、ギュッと凝縮して楽しかったんじゃなかろうかと思う。
実家に車がなかった私は、大学の同級生たちがみんな教習所に通うのを横目に、免許を取ろうとは思わなかった。男の子の助手席に乗せてもらう方がいい、と本気で考えていた気がする。ただ、上京しフリーライターとして仕事を始めると、「ああ、免許があったらなあ」と感じることが増えた。地方に取材に行った際、車があれば、不便な場所にぽつんとある、素敵な雑貨店やカフェに寄り道して帰ることができる。東京近郊でも、電車だとぐるりと遠回りしなくてはいけない場所も、車だとすぐに行くことができる。それでも、フリーランスは時間が不規則だから教習所に通うなんて無理! と諦めていた。
そんな私が、父が免許を返納したと聞いて「今、取りに行かなくちゃ!」と思い立った。当時両親はまだまだ元気で、電車やバスでどこまでも出掛けていたし、早急に車での送迎が必要というわけでもなかった。でも、この先きっと必要になってくるはず、と不思議な確信があったのだ。仕事帰りに教習所へ申し込みに行った。教習所から「オートマ専用と、マニュアルとどっちがいいと思う?」と夫に電話をしたら「え~? 免許取るの?」と驚かれた。
年末年始で集中的に通って取ってしまおう、という魂胆だったが、そんなにうまくいくわけはなく、高校生たちにまじっての教習所通いは、想像以上につらかった。
当時、夫が乗っていたのがマニュアル車だったので、無謀にもマニュアルの免許を取ることになった。路上に出て坂道に差し掛かるとドキドキする。夜寝ているときにも、運転している夢を見てうなされた。四苦八苦して、やっと免許証を手にしたときには、嬉しくて、写真を撮って両親にメールをした。
娘の運転がプレゼントに
免許を取ってからは、両親を連れて北海道や九州へ旅行に出かけた際にも、レンタカーであちこちの観光名所を巡った。実家に帰ったついでに、カーシェアで車を借り、淡路島まで海鮮丼を食べに行ったこともある。今は、遊びに出かけることは少なくなったが、お正月とお盆に、車で母方、父方のお墓参りに行くのが恒例行事になった。そのたびに「ああ、免許を取ってよかったなあ」とつくづく思う。
「仕事で帰る」と電話をすると、母が「あのね、ついでにちょっと車で連れて行ってほしいところがあるんよ」と言う。「うんうん、もちろんいいよ」と答えられるのが嬉しい。
出かける時には駅前の駐車場まで、カーシェアの車を取りに行く。駐車場内で、行き先のカーナビのセットをすませ、「これから出ます」とLINEをして、実家へ向かう。マンションの下まで両親が出てくるので、ふたりを乗せて出発。そんな段取りにもすっかり慣れた。
本当は、近くに住んでいれば、両親が1~2か月に一度大学病院に定期検診に通うときにも、車で連れて行ってあげられるのになあと思う。「いやいや、駅から直結した病院だから大丈夫よ」とか「専用のバスがあるからラクチン」とふたりは語る。そんな話を聞くと、心配性の私はすぐ手を貸したくなるけれど、ふたりでなんとか病院に通うというプロセスも、元気の素になっているから逆によかったのかも……とも思える。

一田家のリビング。壁には、一田さんが幼少期に大切にしていた人形が今も飾られている。
幼い頃「私」という存在は弱く、「親」はなんでもできる存在だった。それがいつの間にか、父ではなく私がハンドルを握るようになった。父を助手席に、母を後部座席に乗せて運転をしている自分の姿に、毎回なんとも言えない不思議な気持ちになる。
けれど……。「今日は、乗せて行ってあげるわ」とちょっとエラそうに言ってみても、父と母が老いてできないことが増えたとしても、私は娘で、父は父、母は母なのだ。私が支える状態になったとしても、私は父や母を超えることはできない。人はいま目の前にある「できること」だけで測ることはできないんだよなあと思う。
現実の生活で老いた両親を支えることはできる。体の具合が悪くて弱気になった母を「大丈夫!」と励ますことはできる。でも、心の一番奥底では、私にとって親はずっと「支えてくれる」存在なのだ。守られていたい。愛されたい。という子の想いは、永遠なんじゃないかと思う。何かを与える力がなくなったとしても、両親が私をいちばん大切な存在として想い続けてくれるだけで、父はいつまでも父、母はいつまでも母なのだ。
『父のコートと母の杖』一田憲子著【父の免許返納と私の運転】より
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人気ムック『暮らしのおへそ』編集ディレクター・一田憲子さんが父と母を綴る初めてのエッセイ集。現在進行形で老親と向き合う一田さんの実体験は、同世代の方から多くの共感が寄せられています。親や家族のことで迷ったり、悩んだりしている方に是非読んで頂きたい一冊です。
Profile

一田憲子
1964年生まれ。編集者・ライター。OLを経て編集プロダクションに転職後フリーライターとして女性誌、単行本の執筆などを手がける。企画から編集、執筆までを手がける『暮らしのおへそ』『大人になったら、着たい服』( ともに主婦と生活社)を立ち上げ、取材やイベントなどで、全国を飛び回る日々。『すべて話し方次第』(KADOKAWA )、『歳をとるのはこわいこと?』( 文藝春秋)ほか著書多数。暮らしのヒント、生きる知恵を綴るサイト「外の音、内の香」主宰。ポッドキャスト番組「暮らしのおへそラジオ」を配信中。http: //ichidanoriko.com
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