第1回 お父さんのお豆腐のステーキ
私の家は昔旅館を営んでいて、特にバブルの時代ということもあり、両親、祖父母ともに日々とても忙しそうだった。小学生から帰ってくると、裏口の玄関の横にある大きな厨房で、お父さんや板前さんが活気よく夜の仕込みをしていて、おかえりと私を迎えてくれる。
厨房には、4畳くらいある大きな冷蔵庫と冷凍庫がついていた。冷蔵庫に入るには、大きくて厳重な扉を開けなければいけないのだけれど、私たち子どもには到底自力で開けられない重さの扉だった。遊園地によくあるマイナス何度の世界のような寒さ。扉を開けると冷蔵庫があって、更にその奥に冷凍庫の扉がある。私はたまにその冷蔵庫に入れさせてもらうのが好きで、お父さんにお願いして一緒に入れさせてもらっていた。
日常とはかけ離れた温度の冷蔵庫に入って、「寒い〜〜」とお父さんにしがみつきながら、大きな魚や肉の塊にギョッとする。今何かの間違いでここに取り残されてしまったら、私は凍ってしまうんだろうなと恐怖を感じながらも、異世界を見渡すのが楽しかった。
お父さんは、とても優しい人だった。家業を継いだお父さんを祖父はとても可愛がっていて、旅館の離れにお父さんのためにお店を建てた。旅館のほうは宴会場など大人数のためのもので、お父さんのお店は、こじんまりとした飲み屋さんだった。その名も『ろまん亭』。なんとも昭和を感じるよい名前。
厨房の横にある休憩場で、私たち家族も合計6〜7人いた板前さんやお手伝いさんも、順番に夜ごはんを食べる。大きな炊飯器で炊かれたごはん、お鍋になみなみと入ったお味噌汁、山盛りのサラダやコロッケなどなど。今考えると、大人数のごはんを作る母も大変だったろうなと思う。みんな手の空いた時間に食べにくる。なのでお休みの日以外は、家族揃ってからいただきます、みたいなことはしたことがない。
たまに夜ごはんを食べた後、ろまん亭に遊びにいく。細い廊下を抜けると、大きな洗浄機のある洗い場とドリンク場、ドリンク場には大好きなサイダーとオレンジジュースが並んでいて誘惑の場所。そこを抜けて、お客様用のきれいな玄関があって、スリッパが沢山並んでいる。更にそこを抜けて、タバコの自販機の横を通って、ろまん亭の裏口に辿りつく。
ろまん亭に行くと、お父さんと若い板前さんが忙しく働いている。お父さんはいつも、厨房が見える小さなカウンターの席に私を座らせてくれた。そこからお父さんたちの働いている姿を見る。活気のあるよい時代。
思えば、お父さんに仕事場で邪険にされた記憶がない。忘れただけかもしれないけれど、いつも優しく私に仕事場を見せてくれていた。美味しそうに焼ける焼き鳥の匂い、フライドポテトの揚がる音、オーダーを通す声、ビール瓶を開けて栓が床に転がる音、とても懐かしい。日々賑わっていた。
ろまん亭のメニューに何があったかはあまり覚えてないのだけれど、とても鮮明に匂いも思い出せるメニューがある。それは『お豆腐のステーキ』。よくあるハンバーグがのっている鉄板に、香ばしく焼いたお豆腐にタレがかかっていて、端にはコーンといんげん。仕上げにかつおぶしを散らす。私たち姉妹の大好きなメニュー。
たまに私のために、そのお豆腐のステーキを作ってくれた。お豆腐のさっぱり味に、濃いタレがおつまみにもぴったり。熱々の鉄板で焼かれて香ばしくなったタレがコーンにからんで、それがまた美味しくて、ごはんを食べた後なのにペロリと食べてしまっていた。
お豆腐ステーキは私のろまん亭の思い出の味であり、父との数少ない思い出のひとつ。私たち姉妹がお豆腐ステーキがお気に入りだとわかったら、しょっちゅう作ってくれるようになった。自分の料理を美味しく食べてくれることが、とてもうれしかったんだと思う。
昔一緒に料理番組を観ている時、いつか父が料理、私がケーキを作って、一緒にお店をやろうなんて話をしていた。父は私が小学6年生の時に他界してしまい、それが叶うことはもうないけれど、小さな頃からの父や家族との食べ物の思い出があって、今の私があることにやっと気づいた。いつか私も、豆腐のステーキを美味しく作れるようになれたらいいな。
Profile
夏井景子
Keiko Natsui
1983年新潟生まれ。板前の父、料理好きの母の影響で、幼い頃からお菓子作りに興味を持つ。製菓専門学校を卒業後、ベーカリー、カフェで働き、原宿にあった『Annon cook』でバターや卵を使わない料理とお菓子作りをこなす。2014年から東京・二子玉川の自宅で、季節の野菜を使った少人数制の家庭料理の料理教室を主宰。著書に『“メモみたいなレシピ”で作る家庭料理のレシピ帖』、『あえ麺100』『ホーローバットで作るバターを使わないお菓子』(ともに共著/すべて主婦と生活社)など。
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